Vol.3
息子の優しさに包まれた納骨式
「園の墓」のある冨士霊園は、御殿場の山側にあるため天候が変わり易い。その納骨式の日、天気予報は曇りであったが、霊園のある山には真っ黒な雲が近づいていた。
亡くなられたご主人の納骨のために、クリスチャンである独身の息子さんに連れられて不安げな表情の婦人がやって来られた。彼女は未信者であるためキリスト教式の納骨式に不安なのだろうか。または近いうちに引っ越されると聞いていたので、その引っ越し先の不安だろうか。もしくは生活費の心配であろうか。私たちはこの世にあって心配事が絶えない。将来のことは見えないし、経済的な心配は大半の方が持っておられると思う。
その時の私の最大の心配事は、納骨式の間に雨に降られないだろうかということであった。雨に降られる前に、少しでも早めに始めようということになった。しかし讃美歌を歌っている間にポツポツと雨が降り出し、メッセージを始めた時には土砂降りになってしまった。南の国のスコールのように、私の声は雨音に消されてしまう程であった。傘をさしていたにもかかわらず、着ていた牧師服も大事に扱ってきた皮表紙の聖書もビショビショになってしまった。不思議なもので、心配しているとその通りになってしまうことが多い。否定的な思いや言葉が勝手に信仰を持って働いてしまうのかもしれない。
聖書には、心配してはいけない、恐れてはならない、というような言葉が365回も出てくるという。神が私たちに1年中毎日励ましておられるようなものである。
土砂降りの納骨式は私にとって忘れられないものとなったが、もう一つの忘れられない印象は、息子さんの優しさである。夫を亡くした母親にいつも微笑んで、励ましの言葉を語っている。納骨式の最中もずっと優しく母親の肩を抱いていた。とても心温まる光景であった。
Ⅰヨハネ3:18「子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか。」
一見頼りなさそうな彼であるが、私の聖書知識やメッセージより、彼の行いの方が勝っている。彼の愛は母親に伝わり、彼女は神の愛を知ることになろう。
聖書は一貫して、神の私たちに対する愛を語っている。そして私たちは愛し合うように励まされている。愛より大切なものがこの世にあるだろうか。永遠に残るもの、それは愛である。その愛を実践する者となりたいものである。
それから半年もしないで、彼の母親が信仰を持ち、受礼したという知らせを受けた。彼の愛の勝利である。