Vol.8
土葬?
クリスチャン共同墓地「園の墓」の運営管理をしている私のところに、いろんな問い合わせや要望がやってくる。この前は土葬を希望された方がいらっしゃった。これで2件目である。「園の墓」では土葬はしませんと言うと、土葬の出来る墓地も造ってほしいとの要望であった。私は日本ではもう土葬は禁止されているものだと思っていたが、調べてみると、地域によっては許可されている所もあるようである。
火葬が当たり前になっている日本で、なぜ土葬を希望する人がいるのだろうか。人によって様々な理由があるが、まず単純に火葬は嫌だと言う人、これは亡くなってからも燃やされることへの恐怖を持っている人、また古来の伝統を重んじたい人、自己の尊厳のためと言う人、そしてクリスチャンの方では、復活の時に体が無いと復活出来ないと心配している人たちである。
「園の墓」の墓石のデザインを考えていた時期、カトリック教国のフィリピンに行った際に、霊園を視察したことがある。フィリピンでも最近は都会の墓地事情で、火葬が増えてきたと言われるが、未だに大半は土葬であった。日本での土葬は土に帰るということが思いにあるが、フィリピンでは柩を石室に入れて埋葬している。まさに復活を前提に遺体を保管しているように思えた。
伝道者の書12章7節を開くと「ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る。」と記してある。私たちの肉体はちりから出来ていると言っているが、これはこの世の地上の物質から出来ているということである。私たちの地上を歩む上での仮の宿であるその肉体は、その役目を終えるとこの世の地上の物質に帰り、私たちの霊魂は亡くなると同時に神の許に帰る。私たちの霊魂は遺体に留まったり、復活の時まで眠っている訳ではない。
また、私たちが神から与えられる復活の体は、永遠の栄光の体であり、いずれ滅び去るこの世の物質からまた造られると考える必要はない。
Ⅰコリント15:42-44にこう記してある。「死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。」
私たちは死後、朽ちる体を大事に保管し続ける必要もなく、火葬を恐れることもない。ただ畏れることは、永遠の復活の体を下さる神と親しい関係を持ち続けることだけである。
私に土葬を要望された方は、宗教的理由によると信念を持っていたので、議論は避け、土葬墓地を造ることは考えていない旨を伝えた。彼が誤った教えや恐れから解放されることを祈る。