Vol.13
改葬(後編)
前編の住職の方に怒鳴られたという婦人は、何年もお墓を放っておいたようである。そこに改葬の話が出て、寺の住職の方は腹を立てたのであろう。日本では、お墓を守るということをとても大切にする風習が強い。私の知人は、都会の本社への栄転の話を断り、彼の先祖のお墓を守るために田舎に住み続けている。また、お墓を守るという目的で養子縁組をされた女性を知っている。法事(法要と会食)のために今まで数百万円を使ったという人もいる。
法要は、初七日に四十九日、一回忌、三回忌、七回忌、十三回忌、・・・そしてついには三十三回忌。中には五十回忌をする人もいれば、命日に毎年を行う人もいる。またお盆には棚経、彼岸には彼岸会、地域によっては精霊流しと様々な法要がある。
法要は故人が極楽浄土に行けるように、そして冥福(冥土の幸福)を祈るため、また早く悟りを開けるように応援するものとされている。しかし亡くなった人はすでに神のご支配の中にあり、生きている私たちが死者のためにいくら祈っても、何の効果もないのである。
また、墓参りに行って亡くなった人に語りかけている方がおられる。お気持ちは察するが、死者の霊魂はこの世にはいない。生きている私たちの語りかけを聞くことも出来ないし、私たちに語りかけることも出来ないのである。
それでは、親族の命日に家族が集まることや、墓参りにはどのような意義があるのか。それは、故人を偲び、その人の生前のことに感謝の気持ちを抱き、全てをご支配されている神に委ね、神を礼拝し、この世に生かされている私たちの使命を再認識するいい機会になる。毎年「園の墓」で行われている召天者記念礼拝もそのためである。
寺の住職にとって檀家が去っていくことは痛手であろう。何代にも渡って入る収入源の一つが無くなるのである。そのゆえ、遺骨を改葬しようと願うと、寺からいい顔をされない場合がある。時には前編の電話をくださった婦人のように腹を立てられるかもしれない。またクリスチャン墓地に改葬するのを快く思っていない親戚がいるかもしれない。
しかし詩篇46:1で、「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。」と約束されている。その婦人は、多額の請求がくると寺から告げられ心配していたが、神に助けを祈り求めると、何事もなかったようにスムーズに事が運び、多額の請求も結局なかったと喜びの報告をくださった。私たちの神は生きておられ、祈りを聞かれ、助けてくださる。
私たち日本人は、仏教の風習に知らぬ間に心も時間も行動も、金銭までも縛られている。主に信頼し、勇気を持ってその束縛を断ち切ろうとする者は幸いである。その人は主の守りを体験し、その祝福は子孫に及ぶ。