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エッセイ

Vol.9

信者の裁きについて

私のところに加入者の方々から、死後の世界や、裁きに関する質問のメールや手紙が時々届きます。何と多くのクリスチャンが、救いを取り去られることを心配し、また裁きを恐れていることだろうかと驚かされます。

人は一度救われたら、救いは取り去られることはありません。そしてクリスチャンは、死後罪を裁かれることはないのです。神であり、人として来られた主イエス・キリストが、私たちの罪の身代わりとなって十字架で裁かれて下さったためです。
私たちはこの世を去るまで、原罪(罪の性質)を持っておりますので、これからも罪、過ちを犯してしまうことでしょう。しかし、それらの罪までも赦されており、私たちは義とされているのです。罪を犯したら、それに伴う刈り取りをこの世ですることになるかもしれませんが、この世を去り、神の御前に立った時、キリストの贖いは完璧であるがゆえに、クリスチャンが罪に対して裁かれることは決してありません。

それでは、クリスチャンに対する裁き(審判)とは何でしょうか? それは無罪とされた私たち信者にとって、報酬を頂ける機会なのです。
Ⅰコリント3章12節から15節、「もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現れ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。」
携挙の後、私たち信者は神の御前に立ち、審判を受けます。それは各人の働きの真価が問われるのです。その人の行いの動機が正しく、真心から行っておれば、その行いは金や銀、宝石であり、高く評価され報いを受けます。
しかし、その人の行いが神の目から見て正しくないと、その行いは木や草やわらです。火で真価が試され、その行いは燃えて何も残りません。しかしその人も、救いを取り去られることはありません。報酬は期待できないかもしれませんが、火の中をくぐるようにして助かるのです。
私たち信者は救いを取り去られることがなく、罪の裁きを受けることもありません。それゆえ、安心して、喜んで、真心から神と人に仕えていくことが出来るのです。

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